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伊勢崎賢治氏の「新国防論」について. [反核・平和]

41dCMPjEzYL._SX342_BO1,204,203,200_.jpgこの本は2015年10月,戦争法国会の直後に出版されています.伊勢崎氏は,東チモールでは国連暫定行政機構の役人として現地で知事を務め,アフガニスタンでは日本政府から派遣されて軍閥の武装解除に当たりました.このように紛争現地での平和構築に実績を持つ人であり,そのためこの本は軍事問題,平和構築に関して多くの知見を与えてくれます.

同時に彼は「新九条論」の提唱者として,自衛隊を憲法に書き込むことを主張しています.上のような経歴を持つ人であるだけに,彼の九条改正論は,中間派はもちろん,「護憲派」にも食い込んで行く可能性があります.そこで,その内容を少し検討してみたいと思います.250ページを超える長さで内容も豊富で,重要な指摘や共感する点も多くありますが,とりあえず「新9条」の問題に絞って論じてみます.

彼の9条論は,214ページの「新しい9条をつくる」と見出しが付けられた一節にまとめられています(末尾に引用).簡単に要約すると,2015年に成立した安保法制(別名 戦争法)の矛盾だらけの状況で,自衛隊員の身に何かがあれば,異常な空気のなかでまともな議論もなく九条は変えられてしまうだろう.だから,いわば正気の議論が可能な時に9条を変えた方がいい(そのような言い方はされはていませんが),ということのようです.
また,「9条はこれまで,アメリカの戦争のお付き合いをさせない,したとしても最小限の負担にする「ブレーキ」として,見事にその機能を果たして」きたが,「集団的自衛権が名目上でも容認されてしまった以上,そのブレーキがこれまでどおり働くとも思え」ない,だから「9条を,激動する現代と近未来に『進化』させる時期」だ,と言うのです.

簡単に言えば,9条を「現実に合わせよう」ということに過ぎません.つまり,グローバルな視点,歴史的な視点からの,九条の価値,意味を議論するというのではなく,この十年のオーダーの日本の政治状況に照らして「相対的に」議論しているに過ぎないように思われます.

むしろ,この本の他の記述には,グローバルな視点から,逆に九条維持につながる議論が多くあります.たとえば,2000年に彼が独立期の東チモールに国連から派遣され,インドネシアとの国境付近の知事として仕事をした時のことが語られています.そして,この新しい小国を非武装国家にできる可能性があったというのです.実現はしませんでしたが「あとひと踏ん張りで達成できた可能性も,十分体感した」とあります.

日中間の緊張の問題については次のような記述があります(122ページ).少し長いですが引用します.
逆に、中国の非軍事的在挑発に対して絶対に自衛隊で対処しないということを鉄則にすれば、中国は日本を“侵略”できません。だから、はなから中国を「軍事的脅威」と見なすのは、僕は間違っていると思います。あくまで、日本の領海内における“外国人犯罪”と見なし、今よりも厳しく対処すればいい。自衛隊が撃たない限り中国がみずから「軍事的脅威」になることはない、とドンと構えて海上保安庁の武器使用も含めてピシビシ対処していけばよいのです。
中国は、国際法の運用の頂点に君臨する「手練れ」です。自衛隊が撃たない限り、中国が自ら“軍事的脅威”になるようなへマはしません。最悪失うのは無人島ぐらい、とドンと構えて丁々発止の外交をやればいいのです。「侵略」に怯え、オロオロオタオタしてはいけません。
中国という大国でさえ,「『軍事的脅威』になることはない」というのですから,「専守防衛」にせよ軍隊が必要だとは,一体どの国の「軍事的脅威」に備えてのことでしょうか? もしかして,アメリカ??

さらに,国連PKOなどの「国際貢献」の場面でも,非武装で十分だと彼は述べています.「軍事的貢献は武装だけが能じゃない」として,非武装が原則の国連軍事監視団としての役割を述べています.(ただしこれには指揮官レベルの「軍人」しかなれない,ということらしいので,軍隊としての自衛隊が必要ということなのでしょうか.しかしそのためだけに自衛隊を軍隊として合憲化すべき,というのも変な話です.)

もちろん,一部の,というよりむしろ護憲派の多数派の,解釈改憲を中心とするいい加減さに対する批判は全く当たっていると思います.たとえば,「たとえ,今回の安保法制が廃案になったとしても,『特措法』の昔に戻ってバンザイでいいのでしょうか?」(218ページ)というのは全くそのとおりです.これは,自衛隊に対する結論は正反対ですが,私がブログで再三述べたこと,たとえば「護憲派による解釈改憲」の昨年11月21日の記事の趣旨と通じるものがあると思います.

半永久的に繰り返される,「非武装だったら攻められたときどうするのか」という,ある意味では当然の問いかけに対しては,このブログで繰り返し答えて来ましたが,しかしこの問いが「半永久的」である以上,何度も,表現を変えて繰り返さなければならないでしょう.しかしそれは次の機会に.

--------新九条論の部分を引用--------
新しい9条をつくる
 2001年9月日日。アメリカの個別的自衛権、そしてNATOの集団的自衛権の行使として始まったグローバル・テロリズムとの戦い。第2章で扱ったように、日本は既に、歴代の内 閣で9条が容認しないとしてきた集団的自衛権を「特別措置法」というマジックで行使してきました。いずれも小泉さんの圧倒的な国民的人気に流され、違憲行為をしているという罪悪感は全く国民に共有されませんでした。
 国民にその意識のないまま国家が戦争をすることほど、恐ろしいことはないと思うのですが、どうでしょう?
 たとえ、今回の安保法制が廃案になったとしても、「特措法」 の昔に戻ってバンザイでいいのでしょうか?

自衛隊の存在が違憲か合憲か。
憲法学者100人に同じ質問でアンケート調査をしたら、安保法制議論の今と初年前では結果が違っていたでしょう。
憲法9条は一字一句変わっていないのに、解釈の「相場」が着実に変わってきている。

その相場変動の上限が集団的自衛権の容認だったわけですね。
 閣議決定と安保法制の可決によって上限は超えられてしまいました。9条は完全に空洞化したのでしょうか。
次の政権によっては廃案の可能性はあります。でも、短期間でも運用されることによって、現場において、思わぬ成果が立証されたらどうでしょう。
成果とは真逆に、今までどおり9条の制約で“撃ちにくい銃”を持たされ、安保法制によって拡大した任務をこなさなければならない現場の自衛隊員が窮地に陥ったら(殉職という言葉は口にしたくもありません)。そうした事故が「9条のせい」というふうに喧伝されたら。
そのタイミングで、憲法改正の如何が国民に問われたら、9条はひとたまりもないでしょう。
2015年9月15日、参院、安保法制審議の最終場面である中央公聴会の質疑応答の最後に、「自衛隊は違憲か合憲か」という質疑がありました。 安保法制が俎上に載ったあの場面で、そんな質問をされたら、ああ答えるしかないでしょうが、野党推薦の安保法制に反対の立場をとっている公述人のすべてが「合憲」と応答しました。
これは、どう考えたらいいのでしょうか。
昔は「自衛隊は違憲だから廃止すべき」が護憲派、「自衛隊は違憲のままじゃなく軍に」が「改憲派」。非常にわかりやすかったのです。
今回の安保法制に反対派の大半を護憲派が占めるとしたら、今の護憲派は「廃止は現実的でないから自衛隊は合憲。でも戦争はダメ」というふうに変貌しています。
すると、「戦争はよい」という改憲派もいないはずですから、改憲派と護憲派との違いはいったい何在のでしょうか。
 安倍政権の出現と安保法制の国民的論議は、自衛隊と憲法の論議の従来の対立構造に新たながねじれを生んだようです。
議論のねじれを解消しないまま、つまり自衛隊は「違憲」のまま、そして法的地位が暖昧なまま戦場に送られ、これからも送られ続ける。何とかしなければいけない・・・。そもそも自衛隊の根本的な法的地位を国民に問うことなしに、自衛隊を海外に送つてはならないのです。
自衛隊の法的地位の問題は、常に、「政局の具」にされてきたし、これからも、されるでしょう。こんな状態で、こんな日本の政治で「ジャパンCOIN」は実現可能でしょうか?
9条はこれまで、アメリカの戦争のお付き合いをさせない、したとしても最小限の負担にする「ブレーキ」として、見事にその機能を果たしてきました。
しかし、越えてはいけない最後の垣根であった集団的自衛権が名目上でも容認されてしまった以上、そのブレーキがこれまでどおり働くとも思えません。
70年前にできた9条を、激動する現代と近未来に「進化」させる時期が来たのではないのでしょうか。戦争するアメリカを体内に置きながら「戦後70年間、日本は戦争をしてこなかった」という幻想を抱くのは止めにしませんか。アメリカに今すぐ出て行けとは言わないまでも、少なくとも「在日米軍基地は絶対に他国への攻撃には使わない」とする日米地位協定の「正常化」を、アメリカに突きつけること。そして

・ 国民がみずからの生存にかかわる安全確保の業務を国内の特定の集団に託する
・ 民主主義がその社会で最も殺傷能力のある武器の独占をその集団に託する
 以上を国民の大半が認めるならば、自衛隊の存在を民主主義の法体系の中でしっかり位置付ける時が来ているのではないでしょうか。
専守防衛の軍事組織として。
ジャパンCOINを軸に、国防と世界秩序の維持を目指す「新しい9条」をつくることで。

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バッジ@ネオ・トロツキスト

ソ連・東欧が崩壊した時の、血迷って唯物論や弁証法まで放棄した「マルクス(解釈)学者」たちを思い出します。

もっとも、「不都合な事実」を「我田引水的事実採用」によって反駁・無化したつもりになっていた、地べたを這いまわる「実証主義マルクス主義」なるものの拠って立つ足場も無様なものでしたがねw

ミヤケンは、上手いこと事言ったよね。
「犬が吠えても歴史は進む!」
by バッジ@ネオ・トロツキスト (2017-09-20 19:30) 

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