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国大協会長が「法人化は失敗だった」 [仕事とその周辺]

yamagiwa.jpg国大協会長の山極寿一氏(京都大学学長)が「法人化は失敗だった」と発言しています.(右の画像をクリック)
さて,それではこの問題が起きた2000年代初頭,彼はどのような発言,態度を取ったのか知りたいものです.当時この問題での氏の発言を聞いた記憶はありません.もし沈黙していたのであれば,他人事ではなく「自己批判」も必要でしょう.(1401577.gif追記:国大協会長としての発言なので,彼個人というより,この政策に協力してきた国大協としての反省が必要です.)
なお,上記読売の記事にある「日本は初等中等を含め、世界に対して誇れる教育をしてきた」という発言は一面的過ぎます.多くの人が指摘する否定的面も多々あります.「どの側面では」などの限定をしないと「日本すごーい」と一緒です.

国立大学の「法人化」問題で,「週刊金曜日」2002年4月19日号に発表し,「ペガサス・ホームページ」に転載した拙文を,この際当ブログにも転載します.(関連ページ:国立大学「独立」行政法人化問題資料集国立大学独法化阻止全国ネットワーク
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kin-yobi20020419arrow.jpg政府が実施を急ぐ独立法人化
大学の“独立”は逆に失われる恐れ

  英訳
          豊島耕一

政府は二〇〇四年度にも,大学を国の行政組織から独立させる「独立行政法人化」を実施しようとしている。
目論見通りにいくと、「独立」の言葉とは裏腹に、文部科学省の規制力が強まり、大学の廃校か存続の権限さえも大臣が握ることになる。憲法や教育基本法が保障する「学問の自由」「大学の自治」に真っ向から挑戦する制度改悪だが、反対の動きは極めて鈍い。
国立大学を「国の組織から独立させる」という美名のもとに、実は文部科学省(以下、文科省)の恐るべき権限強化が目論まれている。政府が実施を急いでいる「国立大学の独立行政法人化」(独法化)がそれだ。
 同省の「国立大学等の独立行政法人化に関する調査検討会議」(以下、調査検討会議と略)は三月二六日、すべての国立大学を「法人化」するという最終報告を提出した。これを報じた新聞などの紙面には、「国の規制を外れる」とか「大学独自の決定に」といった言葉が散りばめられているが、注意深い読者には文科省による大学の「中期目標」の設定という項目が目に入ったはずだ。

大学を行政機関に変える

 独法化とは、行財政の効率化の名の下に、行政機関を企画部門と実施部門に分離し、前者を中央官庁に移し、後者だけを「独立」させるというものである。「中期目標」とはその「企画部門」による「立案」に相当する。一般の行政機関にとってもこのような分離が妥当とも思えないが、そもそも大学は行政機関ではない。このような制度を大学に当てはめることは,単に不適切というだけでなく、以下に論じるように教育基本法や憲法との深刻な矛盾を生じる。

 「独法」制度における「中期目標」とは要するに「官」すなわち文科省による大学への命令であり、最終報告によるとその達成度によって予算がコントロールされる。さらには大臣が廃校の権限までも持つという世界にもまず例を見ない、また戦前でさえ行われなかったような政府による一元的支配の制度である。「中期目標」として挙げられている項目は抽象的であり、大学にまで「教科書検定」や「学習指導要領」が押しつけられても不思議ではない。

 高校までの公立学校に対する文科省の官僚的支配は揺るぎないまでに完成しており、教師の自由は大きく制限され、そのあり方が保守派からも「画一的」と批判されるまでになっている。しかし大学に関しては、曲がりなりにも「学問の自由」や「大学の自治」という考えが歯止めとなって、今日まで文科省といえども大学をあからさまに(裏は別として)統制することは出来なかった。それが「法人化」という呪文によって一挙に可能になろうとしているのである。

大学自治への挑戦

img801table.jpg 現行制度と比較すれば独法化が「独立」の名に値しないことは一目瞭然である。次ページの表を参照いただきたい。「中期目標」や「中期計画」なる概念や、それを役所が大学に下付・許認可するなどという制度は現行制度にはない。「目標」に相当するものを強いて探せば教育基本法一条の「教育の目的」であろう。これは国会が決めた法律であり役所が決めるものではない。「計画」については、現行では国立学校設置法に、各大学の評議会がこれを「審議」するとある。法律に書かれた審議という言葉は「話題にしてもよい」などという意味ではあり得ない。その効力の強弱は別として、何らかの決定権を伴わなければ意味がない。どの法律も文科省にこれを越える権限を与えてはいない。独法化ではこれが完全に覆るのみならず、国会が関与する余地もない。すなわち「官」による独裁制である。

 文部省(当時)の高等教育局長でもあった大崎仁氏が所長を務める「国立学校財務センター」が二〇〇〇年一月に出した、欧米主要国の大学の状況をまとめた報告書がある。それによると、「政府による目標の指示、実行計画の認可、変更命令というような『独立行政法人』的手法を採っている例はない」と断じており、この「中期目標」などの制度が国際的にも異常なものであることが分かる。

 評価制度についてもやはり文科省の権限が強化される。現在の「大学評価・学位授与機構」の評価制度にも問題があるが、独法化制度ではさらに文科省に設置される「国立大学評価委員会」による評価が加わり、しかもその結果が各大学への資金配分に直結される。国会による予算審議権は事実上廃止される。

 さらに強烈なのは大臣の廃校権限である。かつての大学紛争時代に「大学管理法」(大学の運営に関する臨時措置法)が国会で大きな争点となったが、そこには大臣による業務停止の権限が規定されていた。しかしそれは「紛争」が長期に解決しない場合だけである。独法化制度では「紛争」など関係ない。大臣の評価次第で「所要の措置」、すなわち継続か廃止かの措置が取られるのである。

 独立行政法人の「独立」の名に値するかも知れない数少ない例は、最後の欄にある会計制度であろう。国からの金が細かく使途を限定されずに運用できるというのはその通りかもしれないが、金額自体はそれこそ「独立」の名のもとに減らされることが想定されており、このため授業料の値上げが必至と見られている。世界的にもすでに最高水準にあるわが国の学費がまたさらに押し上げられることになるだろう。

 先に挙げた調査検討会議の「最終報告」には新たに職員の「非公務員化」が盛り込まれた。これについてはマスコミは一様に「自由が拡大」という見方をしているが、果たしてそうだろうか。これはすなわち「教育公務員特例法」の身分保障の適用対象から外されるということであるが、この法律は「学問の自由」を人事の面で支えるものとされている。身分保障の廃止は、経営側に取っては「自由に」解雇出来ることではあろうが、教職員にとっては自由への抑圧になりかねない。

 以上見たようにこれは、独立行政法人制度の「独立」という言葉とは正反対に、文科省の大学支配の合法化以外の何ものでもない。このような制度が実現してしまえば、大学は今まで以上に国民にではなく「官」にばかり気を使い、天下りが横行し、研究は論文数にこだわって短期的成果ばかりを求めるようになるだろう。そして何よりも大学が社会に対して持つべき重要な役割、すなわち批判者としての役割は最低限のレベルに落ち込むだろう。そのような国家がどのような危険な道を辿ったかは、我が国の近い過去を見れば明らかである。

 すなわち独法化とは、憲法二三条の「学問の自由」とその保障としての「大学の自治」に対する、そして教育への官僚支配を禁止した教育基本法一〇条に対する真っ向からの挑戦なのである。言い換えればこの制度は「悪い」というよりむしろ違法なのである。憲法や 教育基本法に罰則がないから見過ごされていいというものではない。

公務員削減が発端

 政府が国立大学を独法化しようと決めた動機は、これで公務員数を大幅に削減できるという「行革」の「数合わせ」にあった。当初は文部省もこれに反対していた。一九九七年一〇月、当時の町村信孝文部大臣は、記者会見で「独立行政法人のねらいは、効果的な業務の実施にあるが、文部大臣が三~五年の目標を提示し、大学がこれに基づき教育研究計画を作成、実施する仕組み、及び計画終了後に、業務継続の必要性、設置形態の在り方の見直しが制度化される仕組みは、大学の自主的な教育研究活動を阻害し、教育研究水準の大幅な低下を招き、大学の活性化とは結びつくものではない」と表明している。

 しかし、意外にも国立大学出身の有馬朗人文部大臣(当時)が独法化を決定し、その後はお決まりの官主導による「関係者の合意」のシナリオが進められていくことになる。

 文部省(当時)による独法化表明の後も、いくつかの教授会や全国理学部長会議、農学部長会議が反対を表明するなど大学の抵抗は見られたが、全学長で組織する国立大学協会(国大協と略称)が「調査検討会議」に二〇〇〇年六月に参加を表明するや、反対の声は急速に衰えていく。大学側の意気地無さもさることながら、教育基本法一〇条に反すると思われる長年の文部省による大学支配の常態、すなわち予算や組織再編をめぐっての「構造的な脅し」が強く作動し、大学首脳部が「反対」を口にすることはなにがしかの覚悟を要する事態になっている。

02032204.jpg その結果「自分の大学の生き残りのために重要なのは独法化への対応だ」という言説が、首脳部だけでなく「下から」も発せられるようになる。しかし「生き残り」とは社会の中での「自然淘汰」のことを意味するのではなく、文科省によって「殺される」という意味であることは、同省自らがこれを証明した。昨年六月一四日、文科省の工藤高等局長が国立大学の学長らを前にして、「努力が見られないと・・・見捨てていかざるを得ない局面があるかもしれない。・・脅しをさせていただく」と言ったのである。

 脅しは十二分に効果を発揮し、多くの大学が、独法化に反対するどころか、やみくもの「再編・統合」に忙しい。全国の国立大学の学長が一官僚の恫喝にひれ伏すという光景は、もはや奇観と言うほかはない。

改革の主体は誰か

 組織としての批判勢力で最大のものは国立大学・高専の教職員組合の全国連合「全国大学高専教職員組合」(全大教)である。この組織はニュアンスの違いはあれ今日まで独法化反対を堅持している。一方、日教組の大学部門である「UPIセンター」の責任者は、筆者との会見で独法化に反対ではないと述べた。「大学自治を守る方策が取られるはず」との予想からだが、是非とも調査検討会議の「最終報告」を吟味し、それが根拠のあることかどうかを再検討していただきたいと思う。

 この問題で最も責任を負うべきは大学の教授会であるが、ほとんどの教授会は沈黙して「アカウンタビリティー」に背いている。しかし「最終報告」以後、一部ながらこれへの批判決議なども上がってきている。

 反対運動に勢いがないもう一つの原因は、当然の事ながら大学は多くの問題や欠陥をかかえており、しかも大学の自発的な改善能力には限界があるという事実にある。どのような組織でも「他者」の介入がない限り健全さは維持できないというのは普遍的な原理である。

 そこで私は改革の出発点として二つのことを提案したい。まず、大学改革と大学運営への「学生参加」を認めることが重要だ。これは一九九八年のユネスコ「21世紀に向けての高等教育世界宣言」で強調されていることでもある。次に、各大学には「運営諮問会議」が数年前から設置されているが、現状の「お偉方人事」を排し、メンバーに学生とともに地域の市民に加わってもらうことで、大学運営への市民参加に道を開くべきである。これらは教育基本法一〇条が言う「国民全体に対し直接に責任を負つて行われる」ための重要なステップになるはずだ。

 政府の経済財政諮問会議は、大学の独法化を予定より一年前倒しして、〇三年度*から実施する検討を始めている。対する阻止運動が目立たず、強力でもない最大の理由はおそらく、この問題が憲法や教育基本法に関わる重大問題であるという事実が、これらの擁護を主張する人たちの間でさえ十分に認識されていないことにあると思う。そこで「独法化阻止全国ネットワーク」では知識人や諸団体への情宣活動を重視していくつもりである。また国会請願署名にも取り組んでいる。

「独立行政法人化は大学改革である」という言明はもともとウソであったし、それはわずか数年前まで文部省も含め大学関係者全体の常識であった。今起きている事態は「ウソも百編くり返せば本当になる」ということである。推進者の側は、これから国会審議までの長い時間このウソを隠し続けなければならない。記者クラブメディアによるウソの隠蔽が失敗したとき、そして真実が広く国民に知られたとき、この陰謀は音を立てて崩壊するだろう。
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* 誌面で「〇四年度から」とあるのは誤りです.
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筆者の関連論文(新しい順)
求められる「三無主義」との訣別,岩崎稔・小沢弘明編「激震!国立大学」(未来社,1999年)所収
文部省の違法行為・従順な大学,「科学・社会・人間」53号(1995年7月)所収.(「教養部廃止」問題)
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